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墨田区が成立するまでは、区の北部(旧・向島区)と南部(旧・本所区)では、歴史に大きな違いが見られる。北部では、平安時代ごろには陸地化が進み、中世には荘園制度のもとでは下総国葛西御厨の一角にあり、葛西氏知行地の農村地帯として発展を遂げていた。南部では牛島が700年代から牛の放牧地とされていた他はおおむね湿地帯であり、人が住むには極めて向かない土地であった。こちらは北部とは異なり、中世では武蔵国江戸氏一族の知行地であった。しかし、江戸中心部が1657年(明暦3年)の振袖火事によって焼け野原になったため、防災対策の一環として武家屋敷が当区南部へと移動することとなった。同時に、竪川・大横川をはじめとする河川の掘削や南北割下水(今で言うところの北斎通り近辺に存在した。)や碁盤目状の道路の整備が行われた。
その後、明治になると、1878年(明治11年)に北部は南葛飾郡に編入され、南部は東京15区の一つ・本所区として成立するようになる。また、工業化の波が押し寄せることとなり、北部も南部も開発が進んでいくようになった。1894年(明治27年)には、現在でも重要な交通手段である総武線が開業した。
しかし、このように発展してきたが、1923年(大正12年)の関東大震災により、区域の大半が焼失することとなった。特に、元陸軍被服廠跡地(現在の横網町公園など)では、多くの人が避難をしたものの、猛火に遇い、4〜5万人といわれる多大な焼死者を出した。
やがて、それらによる被害も復興していくようになり、1932年(昭和7年)には、北部に向島区が誕生。1935年(昭和10年)の国勢調査人口は、現在の墨田区域(当時の本所区と向島区の合計)で464,892人であり、隣の台東区域(当時の浅草区と下谷区の合計)464,217人と共に、東京で最も人口が集中しているエリアであった。
しかし、第二次世界大戦(特に1945年の東京大空襲)により、またもや区内全土は大きく焼失することとなった。
戦後、1947年(昭和22年)に本所区と向島区が合併し現在の墨田区が誕生した。この区名は、隅田川の堤の通称「墨堤」から墨を、隅田川から田を取ったものであった。1963年(昭和38年)までは、町の復興及び発展とともに人口が増加していったものの、その後は頭打ちとなり減少し始めた。また、町工場も郊外や海外への移転などにともない減少していくこととなった。
近年では、これら工場跡地にマンションを建てるなどの開発が進められ、特に2000年(平成12年)以降は人口が大きく増加(回復)している。
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